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記事/essay

飛行機は怖いのに、寿命は怖くない ― 人はなぜ、いちばん確実な死を恐れないのか

墜落のアナウンスにはパニックになるのに、自分の寿命が年々尽きていく確実な事実には、誰も取り乱さない。この非対称はどこから来るのか。恐怖のスイッチを「時間の近さ・確定度」「自分の不在」から分解し、母を癌で亡くした体験を軸に、なぜ私たちが死から目を背けるのかを考えます。WSNが長寿に取り組む“なぜ”を綴る一人称のエッセイ。

WSN. 私たちは、死なない。 編集部·公開: 2026年7月2日·最終更新: 2026年7月2日

2026年7月 / 文・WSN. 私たちは、死なない。 編集部

 もし飛行機に乗っているとき、機内に「まもなくこの機体は墜落します」というアナウンスが流れたら、客室は一瞬で悲鳴に包まれるだろう。泣き出す人がいて、祈り出す人がいて、隣の見知らぬ誰かの手を握る人がいる。全員が、自分がもうすぐ死ぬという事実を、その瞬間だけは疑いようもなく受け取る。

 ところが、私たちはふだん、それよりずっと確実な事実の前で、まったく取り乱さずに生きている。自分の寿命はおそらくあと数十年で、しかも一年ごとに死ぬ確率は静かに上がり続けている。これは仮定でも脅しでもなく、ただの事実だ。それでも、この事実を思い出して過呼吸になる人を、私はあまり見たことがない。さらにスケールを広げれば、数十億年後には太陽が膨らみ、地球そのものが焼き尽くされて消えるという。人類の営みも、書かれた本も、交わされた愛も、そっくり無に帰す。けれど、その話を聞いてパニックになる人はいない。多くの人は「へえ」と言って、次の話題に移る。

 同じ「死」であり「消滅」なのに、私たちの反応はこれほどまでに違う。私はずっと、これがどこかおかしいと思ってきた。恐怖の大きさは、事実の確実さにも、失われるものの重大さにも、まるで比例していない。むしろ、それとは別の何かが、私たちの「怖い」というスイッチを勝手に握っているように見える。

 これは何故だろうか。まずは、その正体を落ち着いて分解してみたい。

人はなぜ、いちばん確実な死を恐れないのか

 飛行機のアナウンスが人を震え上がらせるのは、そこに「いつ」がはっきり書き込まれているからだと思う。数分後という締め切りが、短い時間のなかに確定している。逃げ場がなく、先送りもできない。だから恐怖が立ち上がる。裏を返せば、私たちの恐怖は、出来事そのものの重さよりも、その時間的な近さと確定度に反応しているのではないか。「いつ来るか」が近く、はっきりしているほど、恐怖は鮮明になる。

 この物差しを自分の寿命にあてると、まったく逆のことが起きているのに気づく。自分がいつ死ぬかは、誰にもわからない。明日かもしれないし、五十年後かもしれない。締め切りが霧のなかに霞んでいる。だから脳は、それを「今、対処すべき問題」の棚に入れない。確率は年々上がっているのに、日付が定まらないというその一点が、かえって恐怖をまるごと無効化してしまう。飛行機の恐怖が「確定した近さ」から生まれるのだとすれば、寿命への無関心は「霞んだ遠さ」から生まれている。皮肉なことに、確実に来るものほど、いつ来るかわからないという理由で、私たちの視界から外れていく。

 考えてみれば、私たちは飛行機の小さなリスクには、ずいぶん熱心に向き合っている。搭乗前に保険に入り、事故の確率を調べ、機体が揺れれば肘掛けを握りしめる。墜落する確率は一パーセントにも満たないというのに。ところが、いつか必ず死ぬという百パーセントの事実に対しては、保険をかけるどころか、正面から考える時間さえ、ほとんど取ろうとしない。低い確率の死には身構え、確実に来る死には無防備でいる。私たちの恐怖は、やはり確率の高さではなく、「いつ」の近さと確定度のほうに反応しているらしい。

 もう一つ、寿命の恐怖が立ち上がりにくい理由がある。それは、死ぬ確率の上がり方が、あまりにもなだらかだということだ。昨日と今日で、私が死ぬ確率はごくわずかしか変わらない。今年と来年でも、その差は実感できるほどではない。人間の警報装置は、急な変化には敏感だが、じわじわと続く変化には反応しないようにできているらしい。ゆっくりと温められる水のなかで、危険に気づかないまま茹だってしまうという、あの寓話とよく似ている。飛行機のアナウンスが一瞬で警報を鳴らすのに対して、寿命は、警報を鳴らすほどの段差を一度も作らないまま、静かに終点へ近づいていく。だから私たちは、いちばん確実に進んでいる事態の前で、最後まで一度も驚かずにいられる。

 地球の消滅にいたっては、もう一段の仕掛けが働いている。それが怖くないのは、はるか未来だからというだけではなく、それが「自分が死んだ後の出来事」だからだ。人は、自分がいない世界を、本当の意味では想像できない。想像しようとした瞬間に、その世界を眺めている自分が、こっそり画面の隅に残ってしまう。完全な自分の不在を、私たちは頭では言葉にできても、身体では受け取れない。だから、自分抜きで世界が終わる話は、他人事どころか、そもそも「事」として立ち上がってこない。恐怖は結局、自分という中心から一定の距離の内側にしか働かない。その円の外にあるものは、どれほど重大でも、静かにスルーされる。

 こうして並べてみると、私たちが死を恐れないのは、死が怖くないからではないとわかる。「いつ」が霞んでいるから、そして「自分がいなくなる」という一点が想像の外にあるから、恐怖のスイッチがそもそも入らないだけなのだ。これは冷静さではなく、むしろよくできた目隠しに近い。

 では、なぜ私はこんなことを、ずっと考え続けてきたのか。ここから先は、私自身の話になる。

外からやってくる死

 子どものころ、私にとって死とは、外からやってくる災難のようなものだった。自分の内側から静かに近づいてくるものではなく、どこか遠くから、ある日突然、襲いかかってくるものだと思っていた。だから怖い対象も、いつも「外」にあった。

 たとえば『赤毛のアン』を入り口にして、その時代の向こうにあった戦争や、ナチスによる迫害の話に触れたとき。人が、理由もなく、まとめて殺されるということがこの世界には起きたのだと知って、背筋が冷たくなった。物語のなかの明るい暮らしの、すぐ隣にそんな現実があったことが、幼い私にはうまく飲み込めなかった。私が住んでいたのは世田谷で、あの一家四人が殺された事件のことも、子どもなりに知っていた。ふつうに眠って、ふつうに朝を迎えるはずだった家族が、ある夜を境にいなくなる。自分の家と、そう変わらない一軒の家で、それが起きたのだということが、長いあいだ胸に引っかかっていた。私が怖かったのは、まさにその「外からの理不尽」だった。病気になって死ぬことも、誰かに殺されることも、運が悪ければ自分の身に降りかかるかもしれない事故のようなものとして、私は死を捉えていた。

 今になって振り返ると、あのころ私が怖がっていたのは、じつは死そのものではなかったのだと思う。私が恐れていたのは、「理不尽に」「突然」「外から」奪われることのほうだった。裏を返せば、理不尽でなく、突然でもなく、外からでもない死——つまり、誰にでも順番に訪れる、あの静かな死のことは、まるで視界に入っていなかった。怖い死と、怖くない死を、私は無意識のうちに選り分けていた。そして、いちばん確実に自分を待っているほうの死を、きれいに見落としていた。

 言い換えれば、私はまだ、死を「避けられるかもしれない災難」の一種だと思っていた。用心すれば、運がよければ、すり抜けられるものだと信じていた。死そのものが、どんな人間にも例外なく訪れる終点だということは、頭の片隅では知っていても、身体ではまるでわかっていなかった。あのころの私も、いつか死ぬのが自分だとは、本当のところ、少しも思っていなかったのだ。

母のこと

 その感覚が根こそぎ崩れたのは、十四歳のときだった。母が、癌で亡くなった。

 あとから知ったことだが、母は余命を宣告されていた。けれど父の方針で、私はそのことを知らされていなかった。だから私は、母がもうすぐ死ぬという前提を、まったく持たないまま、あの一年を過ごしていた。

 最後の一年ほど、母はほとんど寝たきりだった。それでも、私が学校へ出かけたあと、窓から、私が登校していく後ろ姿を毎朝見ていたのだという。これも、ずっとあとになってから聞かされた話だ。動けない身体で、毎朝、同じ窓から、同じ道を歩いていく子どもを見送っていた母の時間を、当時の私はまったく知らなかった。私はただ、いつもの朝として家を出て、いつもの一日を過ごしていた。母が、一日ずつ減っていく時間を数えながら、その窓辺にいたことを知らずに。

 私は母に、必ず治るよ、というような言葉をかけたことがある。子どもなりの、精一杯の励ましだったのだと思う。けれど、そう言ったとき、母は泣いていた。あのころの私は、その涙の意味がわからなかった。今になって思うのは、母はきっと、自分の死期を知っていたのだということだ。治らないと知っている人の前で、治ると言われることの残酷さを、私はまだ知らなかった。私が信じて疑わなかった「必ず治る」という言葉は、私にとっては希望で、母にとっては、たぶん、別れの合図だった。

 同じ家のなかで、私たちは、まったく違う時間を生きていた。母と父は、残された時間がどれだけかを知っていて、その終わりから逆算して日々を過ごしていた。私は何も知らず、この日々がずっと続くものだと思い込んでいた。この非対称は、あとから思えば、そっくりそのまま、あの飛行機の話と同じ形をしている。片方には「いつ」が告げられ、片方には告げられていない。告げられていない私は、だからパニックにもならず、覚悟もせず、ただいつも通りの朝を繰り返していた。守るためだったのだと、今はわかる。けれど、知らされないということは、いちばん確実に近づいてくるものから、目を背けさせられるということでもあった。

 母の容体が急変したという連絡が入って、病室に駆けつけたときには、もう間に合わなかった。詳しいことは、ここには書かない。ただ、あのとき私が目にした光景は、それまで私が抱いていた「外からやってくる死」という子どもじみたイメージを、完全に打ち砕くのに十分だった。死は、遠くから襲いかかってくる例外的な災難などではなかった。それは、いちばん身近な人の身体のなかで、静かに、しかし確実に進行していた出来事だった。そして私はその一年間、そのことに気づきもせず、隣で暮らしていた。

 ひとつの死は、私を打ちのめした。けれど不思議なことに、いつか自分も含めた全員が同じように死ぬという、はるかに大きくて確実な事実は、その後も長いあいだ、私を打ちのめさなかった。人は、名前と顔のある一人の死には涙を流せるのに、数字で語られる無数の死や、まだ来ていない自分の死には、ほとんど何も感じない。悲しみも恐怖も、具体にしか宿らないのだと思う。母の死が私を変えたのは、それが統計ではなく、たった一人の、あの人の死だったからだ。裏を返せば、私たちが自分の死を恐れないのは、それがまだ、顔のない数字のままだからなのかもしれない。

治しても、結局

 母を亡くしたあと、私のなかには二つの感情が残った。一つは、母の死について何も知らされず、何も気づけなかった自分への責め。もう一つは、母の子として、優秀な自分を証明したいという、少し歪んだ願いだった。この二つは、やがて一つの目標に収束していった。医者になって、癌を治す。母を奪った病を、この手で叩きのめす。

 癌を憎んでいた。憎しみは、目標をくっきりと照らしてくれた。何のために勉強するのか、何のために生きるのか、そのころの私には迷いがなかった。癌さえ治せれば、母のような人はいなくなる。私はそう信じて、その一点を目指していた。

 その決意が揺らいだのは、ちょうど高校受験の時期だった。今度は、祖父が癌で亡くなった。

 二人目の癌だった。母のときと同じ病名で、また一人、身近な人がいなくなった。そのとき、私のなかに、それまで一度も浮かんだことのない考えが、ふいに立ち上がってきた。——仮に私が医者になって、癌を治せるようになったとして、それにいったい何の意味があるのだろう。癌を治したところで、その人は、いつか別の何かで死ぬ。心臓が止まるか、脳が壊れるか、あるいはただ老いて、身体が動かなくなる。私が敵だと思って憎んでいた癌は、無数にある死の入口の、たった一つにすぎなかった。

 その気づきは、失望とも、脱力とも、少し違っていた。もっと静かで、もっと底の抜けたような感覚だった。私はずっと、癌という一つの病を敵にしていたつもりでいた。けれど、私が本当に許せなかったのは、憎んでいたのは、癌ではなかった。人がいなくなること、その人がこの世界から消えてしまうこと——つまり、死そのものだったのだ。祖父の死は、私に、自分が戦うべき本当の相手の姿を、初めてはっきりと見せた。

 考えてみれば、医学が一つの病を克服してきた歴史は、そのまま、死の入口を一つずつ塞いできた歴史でもある。かつては多くの人が感染症で命を落とし、それが抑えられると、今度は心臓や血管の病が前に出てきた。そしてそれらも少しずつ治療できるようになると、癌が、老いが、次の入口として残る。一つの扉を閉じるたびに、人はまた別の扉から連れ去られていく。死そのものの総量は、少しも減っていない。ただ、私たちがどの扉を通るかが、入れ替わっていくだけだ。癌を治す医者になるという私の夢は、その長い連鎖の、また一つの扉を塞ぐ仕事だった。尊い仕事だ。けれど、それは死との戦いの本丸ではなく、いちばん外側の堀を埋める作業にすぎないのではないか。祖父を送った十五歳の私は、言葉にはできないまま、そういうことを感じ取っていた。

目を背ける、その仕組みごと

 ここで、冒頭の話に戻りたい。

 私が子どものころ、死を「外からやってくる災難」だと思っていたこと。母が寝たきりのまま、毎朝窓から私を見送っていたのに、私がそれに気づかなかったこと。治らないと知っている母に「必ず治る」と言えてしまったこと。これらはすべて、あの飛行機の話と、同じ構造をしている。

 中学生くらいまでは、たいていの人が一度は「自分もいつか死ぬ」という事実の前で立ちすくむ。眠れなくなる夜がある。けれど多くの人は、やがて受験や仕事や、日々の暮らしに追われるうちに、その問いから静かに目を背けていく。忘れたわけではない。ただ、いつ来るかわからないという理由で、脳がそれを「今の問題」の棚から下ろしてしまう。飛行機の恐怖を生む「確定した近さ」の、ちょうど反対のことが、私たちの人生では常に起きている。

 その証拠に、と言ってしまいたくなる場面がある。「百歳まで生きられれば十分だ」「もう、いつ死んでもかまわない」——そう口にする人は、決して少なくない。達観しているように聞こえるし、本人もそう信じているのだろう。けれど私は、ひそかに疑っている。そういうことを軽やかに言える人に限って、いざ自分が癌を告げられたり、大きな病を宣告されたりしたとき、誰よりもうろたえ、誰よりも死を恐れて慌てるのではないか、と。口では死をあっさり手放してみせるのに、その手放しは、死がまだ遠く霞んでいるあいだにしか成り立たない。深く考えれば、死は本来、それほど怖いもののはずだ。それなのに、ふだんの私たちの言葉からは、その恐怖が明らかに抜け落ちている。手放しているのではなく、まだ本当には手に取っていないだけなのだ。

 だから、健康診断で影が見つかったとき、あるいは診断名を告げられたとき、人は決まってこう言う。「まさか、自分が」と。けれど、よく考えれば、まさかも何もない。人は、いつか必ず病むし、いつか必ず死ぬ。それは例外のない事実だ。それでも私たちが心底驚いてしまうのは、その事実を、頭では知っていても、身体では一度も本当には受け取っていないからだ。母に「必ず治る」と言ったあのときの私と、「まさか自分が」と驚く人とのあいだに、たいした違いはない。私たちは、死をスルーするための、じつによくできた仕組みを、一人ひとりが内側に飼っている。

 この目隠しは、たぶん、生きていくために必要なものでもある。もし私たちが、自分がいつか必ず死ぬという事実を、飛行機のアナウンスと同じ生々しさで、四六時中つきつけられていたら、まともに暮らしていけないだろう。朝、顔を洗うことも、仕事に向かうことも、誰かを好きになることも、すべて「どうせ終わるのに」という影のなかで色を失ってしまう。だから脳は、死をそっと視界の外へ押しやってくれる。それは欠陥ではなく、たぶん、優秀な設計だ。

 けれど、その優秀さには代償がある。目隠しがあまりにうまく働くせいで、私たちは、死をどうにかしようという発想そのものを持たなくなる。見ないものについては、考えない。考えないものについては、手を打とうとしない。こうして「人は必ず死ぬ」という前提は、疑われることもないまま、揺るぎない天井として頭上に居座り続ける。私が長いあいだ抱いてきた違和感の正体は、たぶんここにある。私たちは、いちばん確実に訪れるものを、いちばん熱心に見ないようにしている。そして、それを冷静さや大人の分別だと思い込んでいる。

それでも、抵抗してやる

 では、癌を治すことに意味はないのか。そんなことはない、と今の私は思う。ただ、私たちが本当に向き合っていない相手は、個々の病ではなく、その先にある死そのものなのだと思う。癌を一つ治しても、その人はまた別の扉から連れ去られる。だとしたら、扉を一つずつ塞いでいくだけでなく、そもそも「人は必ず死ぬ」という前提そのものを、一度疑ってみてもいいのではないか。

 ここから先は、証明ではなく、私個人の信念として書く。

 私は、人が死ぬのは「定め」だとは思っていない。それは避けようのない終点ではなく、いつか回避しうる課題なのかもしれない、と本気で考えている。神様がくれたのか、自然が長い時間をかけて組み上げたのかはわからないが、この身体というものには、そのための答えが、どこかに必ず備わっているはずだ——私はそう信じている。根拠を問われれば、返す言葉はない。これは科学の結論ではなく、母を失った十四歳の子どもが、その先で拾い上げた一つの祈りに近い。

 根拠はないと書いたが、まったくの空想でもない、と自分では思っている。自然界には、歳をとってもほとんど衰えないように見える生き物や、失った身体の一部を作り直してしまう生き物がいるとも聞く。同じ「生命」という仕組みの上に立っているはずの私たちの身体にだけ、そうした力が最初からいっさい備わっていないとは、どうしても思えないのだ。人が老いて死ぬのは、宇宙の法則というより、まだ解けていない一つの問いなのではないか。解けていないことと、解けないことは、違う。少なくとも私は、その二つを混同したくない。

 この信念は、あの「治しても、結局死ぬ」と気づいた日から、そのまま地続きに生まれたものだ。あの日、私は一度、底が抜けた。癌を治すことにさえ意味を見いだせなくなって、目標を失いかけた。けれど、その底の先で、私のなかに残ったのは、あきらめではなかった。むしろ、こういう思いだった。——やっぱり、私は死にたくない。大切な人を、二度と、あんなふうに奪われたくない。人が必ず死ぬなんて、どう考えてもおかしい。だったら、それに抵抗してやる。癌という一つの扉だけでなく、その奥にある「必ず死ぬ」という前提そのものに、抵抗してやる。死を、当たり前の天井として受け入れてしまうことそのものに、抵抗してやる。

 これは傲慢な考えかもしれない。人はいつか死ぬのだから、それを受け入れて丁寧に生きるほうが、よほど成熟した態度だと言われれば、うなずくところもある。実際、死を見据えるからこそ一日が輝くのだ、という言葉には、確かな真実が含まれている。けれど、私はどうしても、その成熟のなかに、あの目隠しの匂いを嗅ぎ取ってしまう。「受け入れる」と「見ないふりをする」は、外から見ると、驚くほどよく似ている。本当に受け入れているのか、それとも、抵抗する道を最初から思いつかないだけなのか。その二つを、私たちはきちんと区別できているだろうか。少なくとも私は、まだ受け入れたくない。受け入れる前に、抵抗するだけ抵抗してみたい。

それでも、予告は流れない

 飛行機には、墜落の予告が流れる。だから人は、その数分間だけ、まっすぐに自分の死と向き合う。けれど人生には、あの機内アナウンスに当たるものが、どこにも流れない。いつ来るのかは、最後まで霞んだままだ。その静けさを、幸運と呼ぶべきなのか、それとも、私たちの目をゆっくり閉じさせていく麻酔と呼ぶべきなのか。

 私には、まだその答えが出せない。ただ、一つだけ決めていることがある。私はできるだけ、目を覚ましていたい。いつか必ず死ぬという、いちばん確実な事実から、目を背けずにいたい。そしてもし許されるなら、その「必ず」に、最後まで抵抗していたい。

 あなたは、どうだろうか。次に飛行機のアナウンスに震えるとき、その恐怖を、日々の暮らしに持ち帰ることができるだろうか。それとも、着陸してタラップを降りたとたん、いつものように、いちばん確実な事実を、また静かにスルーしてしまうだろうか。

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エッセイ老い寿命なぜ長寿に取り組むのか

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